昭和30年に建てられ、平成3年に閉校した小さな分校。最後の数年間は冬季分校扱いであった。廃村となった山深い集落にポツンと残されている。
数ある廃校の中で、こんなに物語を紡ぐ学校は珍しかった。
では、ページを捲っていこう。
平成3年。竜沢分校の最後の児童は、双子の男の子だった。
歴代の卒業生達の作品だろうか。
▲ぼくたち双子は、竜沢分校の最後の児童です。兄ちゃん姉ちゃんも分校児童でした。先生は一年生の時からずっとM先生です。先生は特に国語と算数を教える時は厳しいです。国・算のない土曜日でも「国・算持ってこいよ」と言います。ぼくたちが少しゆっくりできるのは、お客様が来たときです。休み時間が長引くからです。それから先生が雪で遅くなる時です。でも午前中に出来なかった分を、必ず午後からやるので同じみたいだと思う時もあります。
▲昼食は先生とぼくたちが弁当を持ってきます。ストーブを囲んで食べるのは一日で一番楽しいです。
この用具室に、当時の文集などが残っていたのだ。
二人ともいい表情をしている。スポーツも得意そうだなぁ。
最後の冬季分校の開校式だ。沢山の大人たちに囲まれ、かしこまりながらも嬉しそうだ。閉校ということで、歴代の先生方のエピソードも寄せられており、当時の竜沢集落の様子を伺い知ることが出来た。
▲昭和55年12月24日のことでした。午後7時から予定されていた分校の懇親会に出席のため、いつになく降りしきる雪の中ジープで竜沢を目指したのは午後6時のことでした(先生談)
⬇そこから猛吹雪に見舞われ、ジープは立ち往生。命の危険も感じたという。村の方々に助けられ、その後暖かい部屋ですき焼き鍋を囲んで食べたのが印象深かったという。
▲部落唯一の通信機関は学校にある電話でした。地区民へ来る電話の応答は学校でやり、呼び出しは学校のスピーカーによる放送でした(先生談)
⬇昔、電話は家庭の玄関にあるのがお約束だった。ご近所と共同で使うことが多かったからだ。学校のスピーカーで呼び出しって凄い。
▲当時高価だったテレビはこの分校にしかありませんでした。テレビは村の人達の娯楽にも利用されて、夕方や夜に相撲やプロレスを観たい村の人達から所望されて解放したものです。特に、皇太子と美智子妃殿下のご成婚の実況中継のときは、地区民の多勢がテレビに釘付けになった思い出があります(先生談)
⬇映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界だ。
この先に体育館がある。
▲体育なんかはほとんど卓球ですが、時にはゴムまり野球をします。先生からは三振をよく取られます。
⬇少人数の体育は何をするのかなって疑問だったけど、やっぱり王道は卓球だった。子供に容赦しない先生、好きです。
静かな体育館に先生と生徒二人。合計三人の声がこだましていたに違いない。それぞれに、かけがえのない思い出だ。
▲ぼくたちは二人だけで分校生活を送っていますが、あともうわずかです。たぶん将来竜沢そのものがなくなるだろうと思います。しかしぼくたちは、分校での勉強をいかしてこれからもがんばっていくつもりです。大人となったとき、なつかしい思い出としての分校、ふる里としての竜沢を今のうちしっかりと心にとめておきたいと思います。
2022年解体。
コメント